コース沿革
教育制度の改革により昭和24年(1949年)に徳島大学が発足するとともに、工学部機械工学科は入学定員20名で設置され、その後機械工学・工業の発展とともに昭和34年(1959年)には入学定員40名に増加した。さらに昭和36年(1961年)に、機械工学科の一部を持ち出して精密機械工学科が入学定員40名で設置された。機械工学科とは学問として多くの共通点を持つ一方、境界領域にまたがるさまざまな学際的な教育・研究に特色をもつ学科で、新しいタイプの機械技術者・研究者が養成されることになった。その間に、昭和29年(1954年)に勤労者の夜間教育のため工短大機械工学科が入学定員40名で、昭和42年(1967年)に精密機械工学科がそれぞれ入学定員40名で設置された。
さらに、昭和39年(1964年)に大学院工学研究科修士課程機械工学専攻が、昭和40年(1965年)に精密機械工学専攻がそれぞれ入学定員8名で設置された。このころより、教授・助教授の資格には博士号の取得が条件となり、これによって高度成長期の産業界からの、より高度な技術修得の要求に応じた教育・研究体制が整備された。
さらに、昭和39年(1964年)に大学院工学研究科修士課程機械工学専攻が、昭和40年(1965年)に精密機械工学専攻がそれぞれ入学定員8名で設置された。このころより、教授・助教授の資格には博士号の取得が条件となり、これによって高度成長期の産業界からの、より高度な技術修得の要求に応じた教育・研究体制が整備された。
昭和50年(1975年)、経済不況が続き、学生の就職状況は芳しくなかった。
昭和53年(1978年)、工短大の入学志願者が少なくなり、その精密機械工学科を生産機械工学科に改称した。
昭和54年(1979年)に、共通一次テスト実施後最初の学生が入学し、機械工学科に動力工学講座が増設となり、入学定員が10名増えて50名になった。
昭和57年(1982年)には、精密機械工学科に精密設計講座が増設(3年次編入定員10名)された。また、パソコン20台を購入し、メカトロニクス教育を開始した。
昭和53年(1978年)、工短大の入学志願者が少なくなり、その精密機械工学科を生産機械工学科に改称した。
昭和54年(1979年)に、共通一次テスト実施後最初の学生が入学し、機械工学科に動力工学講座が増設となり、入学定員が10名増えて50名になった。
昭和57年(1982年)には、精密機械工学科に精密設計講座が増設(3年次編入定員10名)された。また、パソコン20台を購入し、メカトロニクス教育を開始した。
昭和59年(1984年)に、工短大の創立30周年記念事業が開催され、エンジン、タービンブレードなどが企業から寄付された。それらは機械工学科棟に展示されて、学生の教材として役立っている。
昭和60年(1985年)に、精密機械工学科の創立25周年記念事業が盛大に行われ、記念誌「未来への礎」が発刊された。
第3回残留応力国際会議が徳島で開催され、100名を越える外国からの研究者も加わり盛況であった。
昭和63年(1988年)に、大学院博士後期課程の設置に伴う大規模な改組があり、機械工学科と精密機械工学科が統合して機械工学科となり、3大講座(機械科学、機械システム、知能機械学)に再編成された。機械科学講座は、材料の力学、機械材料学および機械工学とその周辺分野の複合技術に、機械システム講座は、流れ現象とその応用の流体システム、熱現象とその応用の熱システム、設計工学システムに、また知能機械学講座は、ロボット、数値制御工作機械に代表される情報機械に対応できるための精密工学、メカトロニクス技術に重点を置き、教育・研究を担うことになった。
平成元年(1989年)には、臨時増募の入学定員15名を加えて入学定員が105名となった。
平成3年(1991年)に、大学院工学研究科博士後期課程が設置された。
昭和60年(1985年)に、精密機械工学科の創立25周年記念事業が盛大に行われ、記念誌「未来への礎」が発刊された。
第3回残留応力国際会議が徳島で開催され、100名を越える外国からの研究者も加わり盛況であった。
昭和63年(1988年)に、大学院博士後期課程の設置に伴う大規模な改組があり、機械工学科と精密機械工学科が統合して機械工学科となり、3大講座(機械科学、機械システム、知能機械学)に再編成された。機械科学講座は、材料の力学、機械材料学および機械工学とその周辺分野の複合技術に、機械システム講座は、流れ現象とその応用の流体システム、熱現象とその応用の熱システム、設計工学システムに、また知能機械学講座は、ロボット、数値制御工作機械に代表される情報機械に対応できるための精密工学、メカトロニクス技術に重点を置き、教育・研究を担うことになった。
平成元年(1989年)には、臨時増募の入学定員15名を加えて入学定員が105名となった。
平成3年(1991年)に、大学院工学研究科博士後期課程が設置された。
平成5年(1993年)に工短大が廃止されたため、機械工学科に夜間主コースが入学定員20名で新たに発足した。それに伴い、工短大の機械工学科および生産機械工学科の教職員は全員工学部機械工学科に転入し、生産システム大講座が新設されて4大講座となった。この大講座は、コンピュータ支援による機械設計、素材加工、精密測定、データ処理法などに関する教育・研究を行うものであり、これによって機械工学専攻の入学定員は16名となった。この年に、工学部実習棟(旧機械工場と機械の実験室)が完成した。
この年に、日本学術振興会の後援でロシアから結晶界面の研究者が参考して日・露「結晶界面の構造と機能化」シンポジウム(徳島大会)が開催され、本学科から多くの教官が出席した。
平成8年(1996年)に、工短大が閉学し、機械工学科と生産機械工学科が廃止された。
平成10年(1998年)に、新機械工学科棟が完成した。
工学部創立50周年までに機械系学科は、学部卒業生2,457名、修士課程修了生74名を社会に送り出した。
この年に、日本学術振興会の後援でロシアから結晶界面の研究者が参考して日・露「結晶界面の構造と機能化」シンポジウム(徳島大会)が開催され、本学科から多くの教官が出席した。
平成8年(1996年)に、工短大が閉学し、機械工学科と生産機械工学科が廃止された。
平成10年(1998年)に、新機械工学科棟が完成した。
工学部創立50周年までに機械系学科は、学部卒業生2,457名、修士課程修了生74名を社会に送り出した。
平成15年(2003年)4月から、機械工学科の教育プログラムがJABEE認定を受けたことにより、機械工学科昼間コースの卒業生は自動的にJABEE認定プログラムの修了生となった。(平成25年度まで継続)
同年8月には、日本機械学会全国大会が、徳島大学常三島キャンパスで開催され、機械工学科の教職員一同がこの運営に当たり、最終日は台風に見舞われたものの盛況のうちに終了した。
平成16年(2004年) 4月1日に徳島大学は国立大学法人となり、「国立大学法人徳島大学」に名称変更した。それに伴い、「教官は教員」に、「技官は技術職員」にそれぞれ呼称が変更された。
平成18年(2006年)4月1日に、「国立大学法人徳島大学工学部」は大学院重点化を実施し、全ての教員は「国立大学法人徳島大学大学院ソシオテクノサイエンス研究部」の所属となった。また、それ以後の大学院学生は、新たに設置された「先端科学技術教育部」に入学することになった。新設の「博士前期課程知的力学システム工学専攻機械創造システムコース」の定員は54名であり、それまでの「機械工学専攻」は修了生の終了とともに廃止されることになった。博士後期課程は、「機械創造システムコース」および「建設システム工学コース」合わせて定員11名の「博士後期課程知的力学システム専攻」にそのままの形で接続されることになった。一方、学部は建設工学科と連携して「もの作り創造システム工学系」機械工学科となり、教員は研究部に所属しつつ学部の教育を担当するという形態になった。この組織再編に伴い、機械工学科の夜間主コースの定員は10名に縮小された。この時点で、独立専攻のエコシステム工学専攻の教員も工学部併任となり、工学部各学科にそれぞれ形式的に所属するようになり、機械工学科にも数名の教員が配属された。同様に、それまでの工学部共通教育担当教員も工学部各学科にそれぞれ所属すると同時に、先端技術科学教育部の教育に関してもそれぞれのコースに所属するようになった。一方、全ての技術職員は、「総合技術センター」所属となった。
平成19年(2007年)4月1日以降、文部科学省通達により、それまでの「教授、助教授、講師、助手」の職種が、「教授、准教授、講師、助教」という名称にそれぞれ変更された。
同年8月には、日本機械学会全国大会が、徳島大学常三島キャンパスで開催され、機械工学科の教職員一同がこの運営に当たり、最終日は台風に見舞われたものの盛況のうちに終了した。
平成16年(2004年) 4月1日に徳島大学は国立大学法人となり、「国立大学法人徳島大学」に名称変更した。それに伴い、「教官は教員」に、「技官は技術職員」にそれぞれ呼称が変更された。
平成18年(2006年)4月1日に、「国立大学法人徳島大学工学部」は大学院重点化を実施し、全ての教員は「国立大学法人徳島大学大学院ソシオテクノサイエンス研究部」の所属となった。また、それ以後の大学院学生は、新たに設置された「先端科学技術教育部」に入学することになった。新設の「博士前期課程知的力学システム工学専攻機械創造システムコース」の定員は54名であり、それまでの「機械工学専攻」は修了生の終了とともに廃止されることになった。博士後期課程は、「機械創造システムコース」および「建設システム工学コース」合わせて定員11名の「博士後期課程知的力学システム専攻」にそのままの形で接続されることになった。一方、学部は建設工学科と連携して「もの作り創造システム工学系」機械工学科となり、教員は研究部に所属しつつ学部の教育を担当するという形態になった。この組織再編に伴い、機械工学科の夜間主コースの定員は10名に縮小された。この時点で、独立専攻のエコシステム工学専攻の教員も工学部併任となり、工学部各学科にそれぞれ形式的に所属するようになり、機械工学科にも数名の教員が配属された。同様に、それまでの工学部共通教育担当教員も工学部各学科にそれぞれ所属すると同時に、先端技術科学教育部の教育に関してもそれぞれのコースに所属するようになった。一方、全ての技術職員は、「総合技術センター」所属となった。
平成19年(2007年)4月1日以降、文部科学省通達により、それまでの「教授、助教授、講師、助手」の職種が、「教授、准教授、講師、助教」という名称にそれぞれ変更された。
徳島大学は、平成28年4月に新学部「生物資源産業学部」の設置、「理工学部」及び「新・総合科学部」への改組並びに「教養教育院」及び「先端酵素学研究所」を新設しました。
それに伴い全ての教員は「国立大学法人徳島大学大学院理工学研究部」の所属となった。理工学部は理工学科のみとなり機械工学科が機械科学コースに再編されたイメージである。
それに伴い全ての教員は「国立大学法人徳島大学大学院理工学研究部」の所属となった。理工学部は理工学科のみとなり機械工学科が機械科学コースに再編されたイメージである。